京都“寺田屋は幕末に焼失”
2008/09/26 20:05
幕末に薩摩藩士どうしが切り合った「寺田屋事件」などで知られる京都市伏見区の旅館「寺田屋」について、京都市は「鳥羽伏見の戦いで焼失し、今の建物は当時のものではない」という見解を示しました。
京都市伏見区の旅館「寺田屋」は、幕末に薩摩藩士どうしが切り合った「寺田屋事件」の舞台になったほか、坂本龍馬が定宿として使っていたことで知られています。
「坂本龍馬が撃ったピストルの弾の跡などが残っている」として、観光名所にもなっていますが、「当時の建物ではない」と指摘する専門家もいたため、京都市が調査を行っていました。
その結果、寺田屋事件の6年後の鳥羽伏見の戦いの際の火災を報じた当時のかわら版に、寺田屋周辺が焼けたとする地図が載っているほか、明治29年に寺田屋を訪れた漢学者の紀行文の中に「鳥羽伏見の戦いで焼け、その西側に再建された」と書かれているなど、9種類の資料に、寺田屋が鳥羽伏見の戦いで焼けたと記されていることがわかったということです。
このため、京都市は25日に「寺田屋は鳥羽伏見の戦いで焼け、今の建物は幕末のものではない」という見解を示しました。
市は、近く観光案内のホームページに「寺田屋は焼失した」と明記することにしているほか、寺田屋に対しても表示などを改めるよう要請しました。
これについて寺田屋の責任者、津幡学さんは「今の建物は、鳥羽伏見の戦いで部分的に火災にあったものを建て直したと認識しているが、京都市の見解も観光客にわかるよう、館内に表示することを検討したい」と話しています。
京都市伏見区の旅館「寺田屋」は、幕末に薩摩藩士どうしが切り合った「寺田屋事件」の舞台になったほか、坂本龍馬が定宿として使っていたことで知られています。
「坂本龍馬が撃ったピストルの弾の跡などが残っている」として、観光名所にもなっていますが、「当時の建物ではない」と指摘する専門家もいたため、京都市が調査を行っていました。
その結果、寺田屋事件の6年後の鳥羽伏見の戦いの際の火災を報じた当時のかわら版に、寺田屋周辺が焼けたとする地図が載っているほか、明治29年に寺田屋を訪れた漢学者の紀行文の中に「鳥羽伏見の戦いで焼け、その西側に再建された」と書かれているなど、9種類の資料に、寺田屋が鳥羽伏見の戦いで焼けたと記されていることがわかったということです。
このため、京都市は25日に「寺田屋は鳥羽伏見の戦いで焼け、今の建物は幕末のものではない」という見解を示しました。
市は、近く観光案内のホームページに「寺田屋は焼失した」と明記することにしているほか、寺田屋に対しても表示などを改めるよう要請しました。
これについて寺田屋の責任者、津幡学さんは「今の建物は、鳥羽伏見の戦いで部分的に火災にあったものを建て直したと認識しているが、京都市の見解も観光客にわかるよう、館内に表示することを検討したい」と話しています。

<画像をクリックする動画が見られます(期限あり)>
コメントを書く
トラックバック
「パンプキン」
2008/08/28 04:57
「パンプキン」とは、原爆が投下される直前の7月下旬からの日本本土での原爆投下の予行演習のため、プルトニウム原爆と形も大きさもそっくりに作り、大量の爆薬を詰めた巨大爆弾です。
愛知県や山口県の教師たちがアメリカ軍の原爆投下作戦を詳述した記録を発見し、
その調査からパンプキンのべ49発が繰り返し日本の各地に落とされ、400人以上が死亡、負傷者も1200人以上にのぼることが判明しました。
アメリカ軍は、パンプキンを原爆投下予定地の周辺に落とすとともに、時には市街地であればどこでもかまわずこの爆弾を投じていたのです。
原爆投下の準備はすべて整いました。
アメリカ大統領トルーマンは、1945(昭和20)年7月26日、日本に降伏を迫るポツダム宣言を発表しました。
これに対して日本政府は明確な回答をしませんでした。
アメリカが原爆投下よって戦争を終結させるという大義名分が作られました。
ついに、1945(昭和20)年8月6日に広島、9日には長崎に原子爆弾が投下されました。
原爆投下によって、広島では、当時、市内には約34万2千人がいましたが、爆心地から1.2kmの範囲では当日中に50%の人が死亡し、同じ年12月末までに14万人が死亡したと推定されています。
長崎では、当時の人口は推定24万人、長崎市の同年12月末の集計によると被害は、死者7万3884人、負傷者7万4909人、にのぼりました。
アメリカ軍は戦争に乗じて、武器開発の実験を行い、その効果を視るため、日本の国人と領土を実験の場としたのです。
この行為は、ナチスドイツが行った非人道的行為と勝とも劣らない暴挙で、許し難い行為だと私は思います。(NHK 8月27日放送「その時歴史が動いた」参照)
愛知県や山口県の教師たちがアメリカ軍の原爆投下作戦を詳述した記録を発見し、
その調査からパンプキンのべ49発が繰り返し日本の各地に落とされ、400人以上が死亡、負傷者も1200人以上にのぼることが判明しました。
アメリカ軍は、パンプキンを原爆投下予定地の周辺に落とすとともに、時には市街地であればどこでもかまわずこの爆弾を投じていたのです。
原爆投下の準備はすべて整いました。
アメリカ大統領トルーマンは、1945(昭和20)年7月26日、日本に降伏を迫るポツダム宣言を発表しました。
これに対して日本政府は明確な回答をしませんでした。
アメリカが原爆投下よって戦争を終結させるという大義名分が作られました。
ついに、1945(昭和20)年8月6日に広島、9日には長崎に原子爆弾が投下されました。
原爆投下によって、広島では、当時、市内には約34万2千人がいましたが、爆心地から1.2kmの範囲では当日中に50%の人が死亡し、同じ年12月末までに14万人が死亡したと推定されています。
長崎では、当時の人口は推定24万人、長崎市の同年12月末の集計によると被害は、死者7万3884人、負傷者7万4909人、にのぼりました。
アメリカ軍は戦争に乗じて、武器開発の実験を行い、その効果を視るため、日本の国人と領土を実験の場としたのです。
この行為は、ナチスドイツが行った非人道的行為と勝とも劣らない暴挙で、許し難い行為だと私は思います。(NHK 8月27日放送「その時歴史が動いた」参照)

コメント
こんなリトルボーイだとか、
ファットマンだとか、ユニークな名前の爆弾だけどやる事なす事ひどい爆弾だ(=ω=)
昨日、ベストハウス見てたら、
特攻隊のラブレターみたいなのがやってまして、
もう泣きっぱなしだったなぁ。
ほんと、たった60年ちょっと前のこの戦争を、
忘れてはいけないと思った。
ファットマンだとか、ユニークな名前の爆弾だけどやる事なす事ひどい爆弾だ(=ω=)
昨日、ベストハウス見てたら、
特攻隊のラブレターみたいなのがやってまして、
もう泣きっぱなしだったなぁ。
ほんと、たった60年ちょっと前のこの戦争を、
忘れてはいけないと思った。
Posted by 花奈☆ » 2008/08/28 11:01
まありは8月になると、戦争を思い出します
戦争は知らないけど、自分の両親、姑が語ってくれます
沢山の命の犠牲の上のに今の幸せがあるんだとしみじみ思う夏ですね
まありは終戦記念日の正午には毎年1分の黙とうを捧げます
まありの街では8月15日の正午にはサイレンが鳴ります。
戦争は知らないけど、自分の両親、姑が語ってくれます
沢山の命の犠牲の上のに今の幸せがあるんだとしみじみ思う夏ですね
まありは終戦記念日の正午には毎年1分の黙とうを捧げます
まありの街では8月15日の正午にはサイレンが鳴ります。
Posted by まあり » 2008/08/28 13:21
ハリーさん、お久しぶりです。
再開、心待ちにしていました。
戦争の話、もっと両親から聞いとけば良かったなと今更ながらに思います。
まぁ、父は生きていますから、今からで遅くないですが。。。
再開、心待ちにしていました。
戦争の話、もっと両親から聞いとけば良かったなと今更ながらに思います。
まぁ、父は生きていますから、今からで遅くないですが。。。
Posted by 山さん » 2008/08/28 13:58
花奈☆さんへ
アメリカはニックネームを付けるのが好きらしく、
原爆開発は「マンハッタン計画」と呼んでいました。
いくら粋な名前を付けても、やることは酷いことをやるもんだと思います。
アメリカはニックネームを付けるのが好きらしく、
原爆開発は「マンハッタン計画」と呼んでいました。
いくら粋な名前を付けても、やることは酷いことをやるもんだと思います。
Posted by ハリー » 2008/08/29 00:43
まありさんへ
戦争は悲惨ですね。
最近では、南オセチアで紛争がありましたね。
また、「ペシャワール会」の日本人職員伊藤和也さん、
アフガニスタンで殺害され、非常に残念です。
戦争は悲惨ですね。
最近では、南オセチアで紛争がありましたね。
また、「ペシャワール会」の日本人職員伊藤和也さん、
アフガニスタンで殺害され、非常に残念です。
Posted by ハリー » 2008/08/29 00:54
山さん、ご無沙汰していました。
戦争を知らない世代が63歳になりましたね。
戦争の語り部も高齢化して、少なくなってきていますし、
後世に戦争の悲惨さをどう伝えていったらいいでしょうか
戦争を知らない世代が63歳になりましたね。
戦争の語り部も高齢化して、少なくなってきていますし、
後世に戦争の悲惨さをどう伝えていったらいいでしょうか
Posted by ハリー » 2008/08/29 01:00
コメントを書く
トラックバック
清純、無垢、気品、女性を輝かせる真珠――「その時歴史が動いた」
2008/05/29 18:20

御木本幸吉は女性を喜ばせる真珠の宝石としての力に気付き、より多くの女性たちに身に着けてもらいたいと養殖に挑む。
赤潮による貝の全滅や唯一の理解者であった妻の死など、数々の試練を乗り越え真珠の量産にこぎつける。
しかし、安価な養殖真珠はヨーロッパの既得権益を守ろうとする宝石商たちに偽物扱いを受けてしまう。
ヨーロッパでの真珠の騒動は、くしくも世間の大きな関心を集め、それによって真珠の専門家である生物学者たちの関心も集めた。
そしてオックスフォード大学のジェームソン博士、フランス・ボルドー大学のブータン教授、アメリカ・スタンフォード大学のジョルダン教授など世界的な権威が自説を発表した。
それにより、養殖真珠が天然と本質的に同じものであることが証明され、裁判に勝利することができた。
ここに、養殖真珠の開発と普及に挑んだ御木本の苦闘の日々が結実した。(その時歴史が動いた)
<真珠は美しい光沢を放つのか?>
真珠は貝の体内に入った異物を核として、炭酸カルシウムの結晶(アラゴナイト)と有機質層(主に「コンキオリン」というタンパク質)が交互に積層し、真珠層が形成される。

この有機質の薄層とアラゴナイトの薄層が干渉色を生み出し、真珠特有の虹色が生じる。また、有機質層の厚さや色素の含有量などによって真珠の色味が決まる。

ちょっと専門的になりましたね。
以前の職場では、私は生体模倣の研究をしていて「コラーゲンとアパタイトの複合化」をやっていました。
これは、骨や歯の模倣に当たります。
コメント
あの、ミキモト真珠ですね。
前に、聞いたこと有ります。
大変な苦労が有ったんですね。
↓このたいやきくんは、かっこよ過ぎです(*^_^*)
前に、聞いたこと有ります。
大変な苦労が有ったんですね。
↓このたいやきくんは、かっこよ過ぎです(*^_^*)
Posted by 山さん » 2008/05/29 23:13
「T」です。
俺もミキモト聞いた事がありました。
なるほど真珠に歴史ありですね(笑)
黒真珠はちょっと不思議。
また来ます
俺もミキモト聞いた事がありました。
なるほど真珠に歴史ありですね(笑)
黒真珠はちょっと不思議。
また来ます
Posted by 「T」 » 2008/05/30 00:21
山さんへ
御木本幸吉のことは知っているんですね。
開発の執念ってすごいですね。
たいやきくんは格好いいですね。
BIGINがブレース調の歌を歌うなんてビックリですよ。
御木本幸吉のことは知っているんですね。
開発の執念ってすごいですね。
たいやきくんは格好いいですね。
BIGINがブレース調の歌を歌うなんてビックリですよ。
Posted by ハリー » 2008/05/30 14:48
「T」さんへ
私も真珠の歴史を初めて知りました。
真珠の色は光の干渉でかなりの部分決定されるので、
黒真珠は、光を殆ど吸収してしまって
僅かにに反射してきた光が、干渉し合ってあのような光沢を放つのだと思います。
光の反射と干渉は、真珠層状構造の各層の厚さと光の波長に関係します。
私も真珠の歴史を初めて知りました。
真珠の色は光の干渉でかなりの部分決定されるので、
黒真珠は、光を殆ど吸収してしまって
僅かにに反射してきた光が、干渉し合ってあのような光沢を放つのだと思います。
光の反射と干渉は、真珠層状構造の各層の厚さと光の波長に関係します。
Posted by ハリー » 2008/05/30 15:00
コメントを書く
トラックバック
「望月(もちづき)の歌」
2008/04/21 00:36
「この世をば わが世とぞ思ふ望月の 欠けたることも なしと思へば」
(現代語訳: この世の中がまるで自分のもののように思えます。それはまるで欠けたところのない満月のようです。)
この歌は、藤原道長(ふじわらのみちなが)が自分の三女・威子(いし)を孫の後一条天皇の后に立てた日、寛仁2(1018)年10月16日の夜、私邸・土御門(つちみかど)邸で開かれた祝宴の場で公卿たちを前に歌った歌である(藤原実資の日記『小右記』)。
藤原道長は康保3(966)年、時の摂政・藤原兼家の五男として生まれる(母は時姫)。15歳で従五位下となり、貴族の仲間入りをする。
22歳の時、時の左大臣・源雅信の娘・倫子(りんし)と結婚。
翌年には権中納言(ごんのちゅうなごん)となり、国政を司る公卿(くぎょう)の一員となる。
長徳元年(995)、全国で疫病が蔓延すると、朝廷では道長の兄を含む公卿たちが次々と亡くなり、道長は権大納言から右大臣に昇進する。
その翌年、道長は31歳で左大臣に就任、名実共に政権頂点の座につく。
その後、道長は長期安定政権を築くべく、自分の娘たちを天皇家に次々と嫁がせ天皇家との姻戚関係を強めていく。長女・彰子(しょうし)は一条天皇との間に皇子を二人もうけ、後に長男は後一条天皇、次男は後朱雀天皇となった。
世に名高い「望月の歌」を読んだのは、道長の三女が孫の後一条天皇の后に立った日の夜のことである。
この時、道長は病に冒されていて、この歌に長期安定政権を樹立したことに対する安堵感をも込めたとものと言われている。
そしてその後、後一条天皇から三代続けて、道長の孫たちが皇位を継承することとなった。道長は晩年、病に苦しみ出家するが、万寿4(1027)年12月4日、62歳でこの世を去った。
(NHK 「その時歴史が動いた」)
詳細系図(別ウインドウが開きます)
(現代語訳: この世の中がまるで自分のもののように思えます。それはまるで欠けたところのない満月のようです。)

藤原道長は康保3(966)年、時の摂政・藤原兼家の五男として生まれる(母は時姫)。15歳で従五位下となり、貴族の仲間入りをする。
22歳の時、時の左大臣・源雅信の娘・倫子(りんし)と結婚。
翌年には権中納言(ごんのちゅうなごん)となり、国政を司る公卿(くぎょう)の一員となる。
長徳元年(995)、全国で疫病が蔓延すると、朝廷では道長の兄を含む公卿たちが次々と亡くなり、道長は権大納言から右大臣に昇進する。
その翌年、道長は31歳で左大臣に就任、名実共に政権頂点の座につく。
その後、道長は長期安定政権を築くべく、自分の娘たちを天皇家に次々と嫁がせ天皇家との姻戚関係を強めていく。長女・彰子(しょうし)は一条天皇との間に皇子を二人もうけ、後に長男は後一条天皇、次男は後朱雀天皇となった。
世に名高い「望月の歌」を読んだのは、道長の三女が孫の後一条天皇の后に立った日の夜のことである。
この時、道長は病に冒されていて、この歌に長期安定政権を樹立したことに対する安堵感をも込めたとものと言われている。
そしてその後、後一条天皇から三代続けて、道長の孫たちが皇位を継承することとなった。道長は晩年、病に苦しみ出家するが、万寿4(1027)年12月4日、62歳でこの世を去った。
(NHK 「その時歴史が動いた」)
詳細系図(別ウインドウが開きます)
コメント
ミランダが大学の時に研究してた「安倍晴明」晴明といえば、藤原道長なので懐かしいなぁと読んでしまいましたww
「その時歴史が動いた」って毎回見逃してしまうんですよねぇ(・へ・;)
「その時歴史が動いた」って毎回見逃してしまうんですよねぇ(・へ・;)
Posted by ミランダ » 2008/04/21 16:38
ミランダさんへ
安倍晴明と言えば、陰陽師。
道長はこんなところで繋がっていたんですね。
安倍晴明と言えば、陰陽師。
道長はこんなところで繋がっていたんですね。
Posted by ハリー » 2008/04/21 22:43
コメントを書く
トラックバック
グルメ誕生〜北大路魯山人と器〜
2007/10/05 10:45

幼くして自分の味覚の鋭さを自覚した魯山人は、食道楽として全国を行脚していた時、旅先の北陸で差し出された九谷焼に盛られた料理を前に愕然とした。器と料理の取り合わせが、おいしさを一層際だたせたのだ。「器は料理の着物である。」美食に目覚めた魯山人は、その粋を客人にふるまいたいとの思いから、大正13(1924)年、赤坂に料亭を開く。
おいしさを追求するために魯山人がこだわったのは、「産地直送」。丹波の天然鮎を生きたまま、夜通しトラックと汽車で取り寄せた。そして料理人や仲居も厳しく教育した。ところが魯山人が最後まで納得できなかったのは、大勢の客をもてなすために集めた5000点の器だった。料理に合う本物の器とは…。魯山人は、自らその器を作ろうと決断。鎌倉の窯場で陶器作りに一心不乱に打ち込んだ。
そして20年後、最高の「料理の着物」となる焼き物に辿り着く。それは、自然の素朴な風合いを持ち味とした備前焼だった。(歴史ドキュメント01(ゼロワン)
)
晩年の魯山人の言葉
「家庭の料理、それは素人の料理であるけれども一家の和楽、団欒がそれにかかわっているのだとすれば精一杯のまごころ料理になるのである。味噌汁であろうと、漬けものであろうと、なにもかもが美味い」
(出典:『魯山人著作集第三巻 味覚馬鹿』)
↓気に入ったら、ポチッと

コメント
コメントを書く
トラックバック
強欲さソ連
2007/08/08 06:19
国際海洋法裁判所の判決によって、カムチャツカ半島東方沖でロシアに拿捕(だほ)された「第88豊進丸」(富山県)の乗組員17人が、1000万ルーブル(約4600万円)を払って2カ月ぶりに解放される見通しとなった。
ロシア側は拿捕から1カ月たっても乗組員を帰国させるそぶりさえみせず、日本が国際裁判所に駆け込んだ。そこでロシアが要求したのは、2500万ルーブル(約1億1500万円)もの身代金、いや保証金だった。
拿捕した乗組員を「合理的な」保証金の支払いによって早期解放するよう定めた国際法をものともしないロシアの強欲さは遺伝的なものかもしれない。ちょうど明日は、62年前に旧ソ連が日ソ中立条約を踏みにじって満州などに攻め込んだ「ソ連侵攻記念日」である。
8月の時点で日ソ中立条約は有効だったが、条約を破り、満州、樺太、北方4島を敗戦後自国の領土としてしまった。(産経新聞)
ロシア側は拿捕から1カ月たっても乗組員を帰国させるそぶりさえみせず、日本が国際裁判所に駆け込んだ。そこでロシアが要求したのは、2500万ルーブル(約1億1500万円)もの身代金、いや保証金だった。
拿捕した乗組員を「合理的な」保証金の支払いによって早期解放するよう定めた国際法をものともしないロシアの強欲さは遺伝的なものかもしれない。ちょうど明日は、62年前に旧ソ連が日ソ中立条約を踏みにじって満州などに攻め込んだ「ソ連侵攻記念日」である。
8月の時点で日ソ中立条約は有効だったが、条約を破り、満州、樺太、北方4島を敗戦後自国の領土としてしまった。(産経新聞)
コメント
コメントを書く
トラックバック
忘れられた島の闘い〜沖縄返還の軌跡〜(予告)
2007/07/30 05:21
コメント
最初みた時ガクガク震えてるおこちゃまがいたじょ(´_`。)グスン
あぁ、ほんとに戦争って恐ろしい、人間てことを忘れてしまうような、いあ、それ以上の出来事なんだろうな・・・。
死ぬ方が楽だって思えるくらいなんだものねΣ(ОД○*)
毎年8月に終戦記念のドラマを見るたびに泣く花奈だす・・・あれからまた一年経ったのねぇ、ほんと毎年早いわぁ(о´・ε・`о)ショボーン
あぁ、ほんとに戦争って恐ろしい、人間てことを忘れてしまうような、いあ、それ以上の出来事なんだろうな・・・。
死ぬ方が楽だって思えるくらいなんだものねΣ(ОД○*)
毎年8月に終戦記念のドラマを見るたびに泣く花奈だす・・・あれからまた一年経ったのねぇ、ほんと毎年早いわぁ(о´・ε・`о)ショボーン
Posted by 花奈☆ » 2007/07/28 15:32
♪花奈☆タンへ
沖縄は日本で唯一陸上戦が行われたところです。
沖縄に行った時、陸軍司令室跡を見てきましたが、
弾丸の痕、自決した日本兵の血痕は壁に付いていました。
本当に、戦争は恐ろしい。
沖縄は日本で唯一陸上戦が行われたところです。
沖縄に行った時、陸軍司令室跡を見てきましたが、
弾丸の痕、自決した日本兵の血痕は壁に付いていました。
本当に、戦争は恐ろしい。
Posted by ハリー » 2007/07/30 09:46
コメントを書く
トラックバック
謙信恐るべし
2007/07/19 00:00
その時: 1578(天正6)年3月13日
出来事: 春日山城で上杉謙信が倒れ、信長が天下統一に大きく近づいた。
越後の龍・上杉謙信。生涯70回以上の合戦でほとんど負けたことがない戦の天才である。しかし、謙信の戦は決して私欲からではなかった。
彼は、戦国乱世の秩序回復を本気で志し、助けを求められば労を惜しまず駆けつけた。
その一方で、争いをなくすために国を豊かにしようと特産品の開発に力を注ぎ、越後を経済大国に押し上げた。
この謙信を恐れたのが織田信長だった。信長が謙信に贈った「洛中洛外図屏風」。近年の研究で、この中に足利将軍邸に向かう謙信の姿が描かれていることが判明した。そこには、必死に謙信に媚びを売る信長の心が透けて見える。
しかし信長の勢力が大きくなるにつれて、両者の関係は崩れていく。謙信は信長と対立する足利義昭や毛利氏と「反織田同盟」を形成、その盟主となる。そして加賀・手取川で最初で最後の頂上決戦を繰り広げる。謙信は、この戦いで信長自慢の鉄砲隊を完全に封じ込め、織田軍の精鋭部隊を完膚無きまでに打ち破り、信長を窮地に追いつめた。ところが謙信は その直後に死去。歴史は再び信長を中心に回り始める。(その時歴史が動いた)
出来事: 春日山城で上杉謙信が倒れ、信長が天下統一に大きく近づいた。

彼は、戦国乱世の秩序回復を本気で志し、助けを求められば労を惜しまず駆けつけた。
その一方で、争いをなくすために国を豊かにしようと特産品の開発に力を注ぎ、越後を経済大国に押し上げた。
この謙信を恐れたのが織田信長だった。信長が謙信に贈った「洛中洛外図屏風」。近年の研究で、この中に足利将軍邸に向かう謙信の姿が描かれていることが判明した。そこには、必死に謙信に媚びを売る信長の心が透けて見える。
しかし信長の勢力が大きくなるにつれて、両者の関係は崩れていく。謙信は信長と対立する足利義昭や毛利氏と「反織田同盟」を形成、その盟主となる。そして加賀・手取川で最初で最後の頂上決戦を繰り広げる。謙信は、この戦いで信長自慢の鉄砲隊を完全に封じ込め、織田軍の精鋭部隊を完膚無きまでに打ち破り、信長を窮地に追いつめた。ところが謙信は その直後に死去。歴史は再び信長を中心に回り始める。(その時歴史が動いた)
コメント
( ゚ロ゚)ハッ
ハリタンの写真がかわってる!!
ハリタンの写真がかわってる!!
Posted by あぉ » 2007/07/19 12:04
♪ あぉタンヘ
どう?今度の写真は??
どう?今度の写真は??
Posted by ハリー » 2007/07/20 23:34
コメントを書く
トラックバック
信長の巨大鉄船、戦国の海を制す〜織田水軍 VS 村上水軍、決戦大坂湾〜(予告)
2007/07/18 23:48
コメント
コメントを書く
トラックバック
謙信恐るべし(予告)
2007/07/16 18:26
















コメント
Posted by ☆りぃか☆ » 2008/09/27 09:04
今までは、坂本龍馬が利用した部屋というのがあって
観光目当てのお客さんが多かったんじゃないかな。
歴史的価値が薄れると、お客さんが減るかもね。
Posted by ハリー » 2008/09/27 12:53
しかし、坂本竜馬といえば英雄だし、一度焼けてしまっているとなると歴史上まずい
のでしょうかね?
その専門家がいて、京都市が調査するっていうのもすごいですねww
Posted by まあり » 2008/09/27 13:02
どうでもいいっちゃぁ、どうでもいいことだよ。
でも、歴史ファンや観光客、旅館や京都市にとっては大問題だね。
歴史的価値がなくなるのだから・・・
専門家の中でも意見が分かれていて
今回京都市が決着を付けたことになります。
Posted by ハリー » 2008/09/27 14:06